昭和47年10月17日 朝の御理解



 御理解 第64節
 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」

 此方は参って尋ねる所がなかった。どういう事を、尋ねる所がなかったのか。それは今でも大抵田舎には一軒二軒はあるのですけれども、お伺い所というものがあります。お地蔵様の当人さんとか、お不動様の当人さんと、拝んでもらって色々お尋ねをする。それは亡者の障りですよ。それは荒神様の障りですよという風に、色々教えて貰う。だからそういうような意味ではない訳です。今迄は尋ねる所がなかったというのですから。結婚をする普請をする。日柄方位を尋ねに行ったり、見て貰うたりする。
 だから尋ねる所がなかったじゃないあるのだ。此方は参って尋ねる所がなかったと。所が、神様と金光大神の中に、交流するもの通うもの。世の中に難儀な氏子あり、取次助けてやってくれという、天地金乃神様の願いが、その願いを受けられて、教祖金光大神がお取次をして下さる。そして願う氏子におかげを授けて下さると同時に、理解申して聞かせと仰る。その理解を聞く所がなかったというのである。しかも理解というのもです。天地の道理であり又は天地の御恩徳を、それこそ懇々として説かれた。
 もうそれこそ、初めて聞く話である。ですから只お尋ね所に行って、お尋ねをするといったような事は、それは今も昔も変わらないあるのです。仏様でも神様でも、そげん所がある。けども、此方は、参って尋ねる所がなかったというのは、そういう意味ではない。言うならば、天地金乃神様のお心をです、参って来る氏子に取次がれる。同時に、おかげも取次がれる。一番中心になさったのは、天地金乃神様のお心を伝えて下さるという事であった。氏子はおかげを受けて、遠路の所を参って来るがと。
 そしておかげを受ける、おかげを受けるから、遠いもなければ近いもない。どういう遠方からでも、それは甘いものに蟻がたかって来るように、お参りをして来た。折角遠路の所を参って来るのであるから、只、甘いものだけを頂くと言う様なものではなくて、遠路の所を参って来るから、どうか信心して徳を受ける、身凌ぎが出来る程しの、信心して徳を受けてくれないかという事なんです。信心して徳を受けてと、こうおっしゃっておられる。そこで天地の御恩徳、天地の道理言うならば。
 天地金乃神様のお心を分からせてもろうて。そのお心に対し奉るところの思い方、考え方又はそういう行き方。そういう生活の基礎基本となるものをです。天地の道理に即応した、生き方を教えられた訳なんです。ですから金光様の御信心は、天地の道理に基づいた生き方。しかもそれは、人間は万物の霊長と言うではないかと言うこと。狐狸ですら神に祭られるという事を有難いと言うではないか。まして人間は万物の霊長であるから、死したる後、神と祭られる事を楽しみに信心せよと仰るのだ。
 神になる事を楽しみに、御徳を受けなければなりません。ただ金光様の信心さえしよりゃ、誰でも御霊の神様にお祭りしてもらえるという、そういう意味の神じゃない。教祖がおっしゃるのは。本当に吾と吾心が拝めれる程しの心という事。有難いなぁ自分が今、思うておる事考えておる事。それを思うただけでも、自分の思うておる事に、ほろっとする程有難い。本当に自分で自分の心が拝みたい。信心して徳を受けるという事は、そういう心の状態を目指して行くところに御徳が受けられる。
 昨日は御徳を受けるという事を、日常茶飯事の中にイライラする事やら、モヤモヤする事やら心配になる事やら、様々な事がある。それをです情けないとか腹が立つとかで、例えばもうこれが信心辛抱と言うて、一日グウグウ言うて堪えとくと言った様な事ではなくて、痛ければ痛い痒ければ痒いでです、さすっても貰い掻いても貰う。そういう生き方こそが、徳を受ける生き方だと頂いたですね。昨日は。
 日常毎日の中にです。腹の立つ事があるなら、堪えとっちゃ出来ん。腹の立つ事があるなら、御神前に向かわにゃいかん。一生懸命拝まにゃいかん。一生懸命拝んで、心が落ち着いてくると、日頃頂いておる御教が、心の中に入ってくる。あぁほんな事、これは腹どん立てる事じゃなかったたい。お礼をかえって申し上げねばならん事に、腹を立てておるといったような事がある。
 私は昨日、久富先生がお米がこの記念祭迄に、一杯一杯じゃろうち言いなさいますもん。私はまぁだ俵が積み上げてあると思いよった。何故かと八月の二十日が夏の御大祭だったでしょう。八月の二十日からどれだけになるですか。まぁ言うならば九月ですけん、九月と十月もまぁだ、二十日ですからその間に、何十俵という米が積み上げてあった。お供えしてあったでしょうが。それがもう二、三俵しかなかち言う。私は初めて合楽でどの位、米が要るかと言う事が分かりました。
 昨日皆さんと話した事でした。本当に合楽でおかげを受けるという事は、嘘のようであるし、又こう言う様な事でも、他所の人達に言うたってです。どうしてそげん米がいるかち言うごとあるですけれども、やっぱり要っておる事だけは事実なんです。しかも神様の間違いなさと言うか、今度の大祭には、大祭にまた五十俵なら五十俵来ましょうよね、記念祭ですから。けれどもちょうど必要なだけは、神様が下さってあるという事なんですよ、いつの場合でも。
 けれども要る事は要るもん。日にどがしこずつ要るのち言うてから、昨日言うた事ですけれどもです。「どうしてそげん使うの」てんなんてんとは思わん。もうそれこそですもうそげん使いよるなら、ほんなこて倒れるばの教会はち言う様な事ではなくてです。それ程のお米が要る程のおかげを受けておるという事。しかもそれがあると言う事が、私は有難いなぁと思うた。是はちった始末倹約せにゃいけん。もうみんな御用に来て貰う時には弁当、一人一人持って来て貰わにゃいけんと言う様な事ではなくてですたい。
 どれだけでも必要なだけは、必要に応じて神様が用意をしておって下さる。その事が有難い。しかもそういう沢山のお米を使わせて頂ける程に、おかげを受けておるという事は有難いなぁとこう思う。それがどうでしょうかこれがもし、私の心が助かっていなかったなら、ちょいと条件にゃ及ばん。そげん食べちからち言うならば、言う所じゃないでしょうか。それをこっちは反対に有難い。
 神様にお礼を申し上げる様な、もう本当言うたら、神様にお礼を申し上げねばならない事を、クーッとしたり、お礼を申し上げねばならない事に、腹を立てたり悲しんだりしておるのです。ですからそういう時点をです、腹が立つなら腹が立つを神様へ向けて、御祈念でもさせて頂きよると、これは腹かく段じゃなかった、お礼を申し上げねばならなかった事であると、気付かせて頂くような生き方。言うならば痛か所を擦って貰うと、良うなるようなもんじゃ。
 痒いかとこを掻いてもらや、あぁと思うようなもんじゃ。そういう生き方こそが、身に徳を受けるんだと。成程痛ければ痛い、痒ければ痒い、それを掻いてもろうたり、さすってもろうたりさせて頂きながら、いつも自分の心というものを、平安な状態喜びの状態にさせて頂く事のそういう精進。そういう焦点をそこに置いての日常生活。成程此方の行は、火や水の行じゃない。家業の行と仰るが、家業の行の中にです、腹の立つ事もありゃ情けない事もありゃ、悲しい事もあるんだけれども。
 それが日頃教えを頂いてる、天地の心を心として、天地の心を分からせて頂く。天地の法則とでも言おうか、又は、真理と言う場合もありましょう。本当な事を教えて頂いておるから、その本当な事と、照らし合わせると、これは有難い事だ、お礼を申し上げる事だというような心の状態を、日々作っていくという生き方が、御徳を受けるんだ。信心すれば、誰でも御徳が受けられるという、昨日は御理解でした。
 今日はね信心して徳を受けて、みしのぎをするようになれと。ですからここのところは、今迄と頂き方が大変違いますよね。此方が参ってたずねる所というところも、今日は初めて頂く感じですね。そんならどういう事をたずねなければならないか。どういう事を神様は、私共に理解申して下さるか。だからそこを聞かなければ、金光様の御信心頂いとる値打ちはないです。
 そこで天地の大恩を説いて聞かせてもろうたり、御恩徳を分からせてもろうたり、天地の道理を分からせてもろうて、その天地の大恩それに神恩報謝の心をもって生活をさせてもらい。天地の道理を見て、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよというのが、金光様の御信心。道理に合う信心でなからにゃいけない。何様に参ったらこうじゃった。かに様に参ったらこうであったと。
 それが本当に人間がそういうような事に、たぶらかされると言うか、惑わされるような事を、平気で言う仏様やら、神様やらあるという事。それはあなた方の普請の時に、金神さんに御無礼しちゃるですばい。久富繁雄さんじゃないけれども、昔信心がない時足が痛むけんで、近所のお稲荷様に参りなさった。そしたらあなたが畑で金神様の足に、三本鍬を打ち込んどんなさるけん、足が痛むち言われた。そればってんやっぱそれは、ほんなこつかもしれませんたいね。
 それはお詫び言うちからさっしゃったら、足がようなった。ですからそれは良うなるとか、良うならんじゃないけれども、そういう愚にもつかないような事をです。人間は神経八合ですから、もうこれで金神さんに断わり言うたけん、良うなるという、その心が良うなるのです。おかしな話でしょうが。しかしそれと同じような事を、みんながどの位、迷うて、低級なそれを信心と思うている人達があるか分からん位ですよ。
 人間は万物の霊長であるから、万物を見て、道理に合う信心でなからなければ。だから、ここで参って尋ねる所がという事はです。言うならば、天地の道理、天地の御心をです。私共が尋ねさせて頂かねばならん、又、それを頂いて帰らなければ、金光様の信心の値打ちはないという事になる。何処何処の何歳の人と結婚しょうと思いよるが、どうでしょうか。相性はどうでしょうか。それは相性がよか、相性が悪かというような事ではないという事です、神に尋ねるという事は。教祖様も同じことであった。
 そういう尋ねる所がなかった。こういう素晴らしい天地の御恩徳を説いて下さるような事がなかった。神様から頂かれて、初めて、天地の大恩が分かられ、天地の道理が分かられて、その道理に基づいた生活を、しかも実意丁寧、それこそ、日月の心のような正確さをもって、神様の前に平身低頭して、信心を進めていっておられるという事です。御自身が通られた道、それを、私共に教えて下さる。
 身凌ぎをする。例えば、水を飲みたいなぁと思うたら、水道の所へ行ってから、水を飲めばよい。お酒が飲みたいなぁと思うたら、酒屋へ行って、酒を買うて来て酒を飲む。御飯が食べたいなぁと思うたら、御飯を食べる。寝たいなと思うたら寝る。これが身凌ぎです。だから、信心の身凌ぎというのは、同じ事である。言うならば、必要なものが必要に応じて、頂けれる程しの信心という事なんです。だから、身に徳を受けてとおっしゃっておられます。さぁ徳を受けなければ、それが出来ません。そうでしょうが。
 昨日、ここを下がらせて頂いて、控に行きましたら、毎日の事ですけれども、久富繁雄さんと博道先生と二人で、一生懸命お初穂の整理をしておりました。昨日、えらい今日は暇のいるねと言うたら、今日はえらい多かけんで暇の入りよる訳です。私は下がったばってん、まあだ半ばでした。そして、久富さんが、えらい感激しておられる訳です。月の半ばに、一軒の銀行に、元利五十万余りのお金を払わなければならん。ところが、帳尻には十五万円しかない。
 これはそれこそ一日だって遅れる事は出来ない。こら今月はどげんなるじゃろうかち。私も全然知らなかった。あるもんとばっかり思うとった。そしたら昨日は神様ちゃ間違いないですなぁ、神様ちゃ間違いないですなぁと言うて、感激しよんなさいました。丁度そこへ私が行き合わせた。「今日は親先生、三十何万ありますよ」と。兎に角博道君が言っておりました。此の頃からここの御大祭を仕える為に、椛目の宮崎さんが会計をしておられます。此の頃から二十万稼いだのが、もうありませんち言う。
 それけんもう二十万ばっかりと言よんなさるですからと言うて、先日からお届けがあっておった。丁度昨日はですねその二十万、宮崎さんに上げて、あれの五十万払うてよかろうようにあるから銀行にも払いなさい、宮崎さんにも渡しておきなさいと言うだけ、おかげを頂いておったです。本当に神様ちゃ見通し見抜きだなという事をいつも体験しておる。これが身凌ぎなんです。必要な時に必要なものが応じて頂けれるという事なんです。だから神様ちゃ、そげん自由自在ならば、銀行から借らんでん。
 もうカバッと五千万円なら五千万、神様は下さりそうなものと。それが人間の理屈というものである。それは神様が下さらん事はなかろうけれども、こちらの信心の程度の事も思わにゃならん。皆さんの場合でもそうでしょう。おかげで千円の金にだけはいつも不自由しない。一万円の金だけには不自由しないと言う様な、皆さんの信心の徳というものをです。そこに一つのバロメーターと言うかそれを置いておくと、自分の信心が一万円がたあるばいなぁ、五千円がたしかなかばいなという事が分かる訳です。
 信心しておればそれを皆さんが実感して行かれるでしょう。是は先月の初めだったでしょうか、先々月の終わりだったでしょうか。まだ暑い時でした。まだ久保山さんが経理をしておる時でした。私と高橋さんと控えに控えておったら、茂さんがやって来た。沢山色んな書類を持ってからやって来ました。「親先生この十月迄に後千六百万足らなくなっとりますから、どうぞ神様にお取次を頂いて下さい」というお願いであった。
 それから私が「茂さんちょいと待たんの」ち、「なしやここの家は五千万円で建つごとなっとってからちゃんとそれも、銀行から借るごとしてあって、出来てきとるのじゃないの」ち言うた。「いいえ私の計算では、千六百万円足らんごとなります」とこう言う。「それはおかしかばい。そしてっさぃ千六百万という大金をです。目ん玉に指突っ込むごと、さぁ十月迄になんてんなんてんち。
 何故そんならそれのごと、あんたがちゃんとしとるとば、早くからお届けせんの」と私が。「私しゃ初めて聞いたが、建設委員長は知っとるの」と私が。だから久富さんの所なら、こまごまと書いた書類を持って行っとると、こう言うのである。けれどもそれだけ、あの人の正確な頭で弾き出しとるとじゃから、間違いないと思うとりますもんですから。まぁお願いせんならんと言う事じゃった所が急にです。ここに土地を買わせて頂く。もう九分九厘出来るもんだと思うておった。
 それが一千万円当てにしてあった。そんなら土地を断らじゃこてと言う事も、なぁにもいらん。向こうから断わられてから出来んごとなりました。土地を買わんならん土地を買わんならんと言うから、又一千万追加して、土地を買う為に借りてあったです。だから、土地が出来なかったから、その一千万円がひょっとだから、後六百万なら六百万だけ、おかげ頂きゃよいと言う事に、その後においてなったんです。そんなら一千六百万も、ちょいと出来んから、借りにも行かなければ心配もない。
 言うならば買うはずの土地を買わなかったという事は、神様が先々から見通しであった。さぁ一千万又追加して貸してくれと言うたって、銀行はそうおいそれと貸す筈はなか。そこそこの、信用なんだから。所が後から色々分かった事なんですが、茂さんの計算の方が違うとったのじゃないかという事になったんです。だから五千万から千六百万ち言うならば、六千六百万もかかるたいと、私はそん時思いました。そげな事の出入りを私がいちいち見たり聞いたりする訳でもないですけれども、そんな訳でした。
 だからいかに神様がです。そういう自由自在なおかげを下さるからと言うて、目ん玉に指突っ込むごたる事です。今申しますように、そんなら、神様が、そげん、持ってござるなら、五千万なら五千万、銀行から借らんでん、ちゃんと用意しなさりゃよかところへと言うけれども。そこに私共の信心がある訳です。そして自分の信心を確かめていく訳です。今日、最後の支払いをさせて頂く。今日という事になっておった。
 ところが色んな事で、なかなか出来なかったけれども。銀行の方の話し合いやら出来て、銀行から、今日二千万出して頂くという事になって、丁度向こうからお金が千五百万なら千五百万要求して来とるのに、きちっと払う事が出来るでしょうが。言うならばです、置いたものを取るようにと言うてもです。例えば力もないのに徳もないのに、そんなら今の私に毎日一千万円ずつてんなんてんち言う事が、出来るはずもない。しかし出来ん事はない。こちらに信心の徳が進みさえすれば。
 けれどもここに必要なものが必要なだけ、神様がそうしてお繰り合わせを下さるという事はです。しかもタイミングよう、素晴らしいタイミングの中にです、向こうから要求されるとに、何日待って下さいなんて言う事はいらんのです。という程しのおかげを頂く事がです。私は身凌ぎの信心という風に今日は、皆さんに聞いて頂きたいと思うのです。身凌ぎという事は、例えば赤ちゃんに水が飲みたいと言うけん。お前は水道の所に行ってから、飲んで来いと言ったっちゃ、飲みに行きはきらんでしょうもん。
 やはり母親がこうやって、飲ませてやらなければならないようにです。身凌ぎとは自分が食べたい自分が飲みたい事を、自由にですそれを飲めれたり、食べれたりするといった事が身凌ぎなんです。だから信心で言う身凌ぎというのは、必要なものが必要に応じてです、頂ける程しの信心を、身凌ぎの出来る信心と今日は聞いて頂いた。そういう身凌ぎの信心を頂かせて頂く為には、信心して徳を受けなければならんと教えておられる。その信心とは拝みさえすりゃよか、参りさえすりゃよかという信心ではなくてです。
 折角遠路の所を参って来るから、折角こげん朝早うから皆さんが参って来るのであるから、折角参って来るのであるから、そういう信心を願い目指してから参って来ないかと、ここには言うてある訳です。只お願いしておかげさえ頂きゃよかという事じゃいかんという事。此方は参って尋ねる所がなかったがと。それは例えば何々様に参ってから、はぁ亡者の障りじゃったげな、荒神様の障りじゃったげなと言う様な事を尋ねて来るという様なものではなくて。
 教祖の神様が天地の親神様から、直々にお知らせを蒙られておられるところの天地の心。天地の親神様のお心を、私共は、尋ね求めていかなければならんという事なのです。そういう生き方が身に付いて参りますところからです。身に徳を受ける信心という事が言えれる。そしてそれはそれなり、十斤しか持てん五十斤しか持てない、百斤しか持てない。そういう現在百斤しか持てないならば、もう百十斤位は持たせて頂ける事の為に、信心を精進してそれが段々力を受けていくという事ですから。
 だから信心は楽しいという事になるのです。同じ只お願い事の為に、五年も十年も信心を費やしておるというのでは勿体ないでしょう。自分の信心に力が付いて行く。詳しゅうなるという事じゃ決してありません。力を受けて行く。言うならば徳を受けて行くという事。そこから身凌ぎの信心が身に付いてくる。お互い一つ本気で身凌ぎの出来れる信心を身に付けて行きたいと思います。
   どうぞ。